管中に宇宙をみる

人 この道を・・・尺八奏者 眞玉和司

鑽仰茶会

5月の最上稲荷総本山は美しい。萌葱色の若葉に包まれた龍王山に、山つつじの花が鮮やかなコントラストを見せ、造化の妙を思わせる。
この総本山が、終日華やいだ賑わいに包まれる日がある。5月吉日の鑽仰茶会だ。18回目の今年は5月11日、岡山県下茶道五流派により、約二千五百人が集い、盛大に催された。
中でも圧巻なのは、毎年各流派が持ち回りで最上三神(最上位経王大菩薩・八大龍王・三面大黒天)への献茶点前を披露する献茶式だ。家元のお点前を間近で見ようとする人々が、会場の本殿を埋め冬くす。お点前直前の会場に、ピーンと張りつめた空気が流れる。
眞玉和司さんはスッと背筋を伸ばした。おもむろに尺八を口に運ぶ。お点前に先立つ尺八演奏である。曲は難しい本曲(ほんきょく)中でも最も難しいといわれる「山越」。険しい山に挑む心情を表した曲だ。深々とした柔らかな音色が、時に激しく時に緩やかに、開く者の心を揺さぶり、染みとおる。
「いい音色ですねえ。惚れ惚れしますよ」
その音曲に風雅の輿をかき立てられる人は多い。
奏でたのは、横浜市在住の眞玉和司さん。尺八歴41年、プロとなって34年。尺八界の数少ないプロ演奏家だ。
「たかだか54センチ余りの竹管、それが私の生き方を変えました。尺八との出合い、いいえ、横山先生との出合いが‥‥‥」
演奏後の眞玉さんは、演奏中とうって変わった優しい表情で、そう話す。

子供集団

横浜駅にほど近いといえば、現在ではビルや商店の立ち並ぶ界隈だ。だが、昭和20年代後半から30年代前半にかけて、つまり和司が近所の子供集団の一員であった頃には、雑然とした下町の雰囲気がまだ色濃く残っていた。学校から帰ると子供たちは実によく遊んだ。空き地や路地裏で、缶蹴りや追いかけっこをした。砂利置場の砂利の山を見れば登らずにはいられない。当時、横浜の街中には海水を引き込んだ運河が何本も通っていた。そこで筏遊びもした。セミ採り、トンボ採り、冬はタコ揚げ、コマ廻し。鼻水を垂らし、あかぎれやしもやけの手をした子供たちである。
子供の間に野球が流行ったのは、この頃だ。缶蹴りはいつか野球にと、とって変わっていった。しかし野球は、空き缶ひとつあればできるゲームではなかった。少なくとも、ボール、バットくらいは要る。
「手でポールを取んのって痛いじゃん」
格好だってよくないよ、ということで皆自分のグローブをねだった。もちろん攻守替われば交替で使うのだが、それでも自分のが欲しい。
「まさ君だってよっちゃんだってあんだよ。ないの僕だけだよ」
と、少々大げさな交渉の末に、やっとグローブを手に入れた。ピカピカのグローブだ。それを手に、和司は意気揚々と野球に参加した。が、それも少しの間のことだ。やがて中学生となった和司は、子供集団を卒業し、その後のグローブの行方を知らない。

尺八をしようか・・・

和司は末っ子の長男だ。上に5人の姉がいた。父は腕のいい大工だが、食べ盛りの子を6人抱えれば、母の家計のやり繰りは並大抵ではなかっただろう。ある日の昼下がり、大きな風呂敷包みを抱えた母を見かけて、無邪気に開いた。
「母ちゃん、どこ行くの」
振り返った母の顔が、いつになく真剣だった。
「言うんじゃないよ」
人に言っちゃいけないことなんだぁ、こくんと領いて、母の背中を見送った。なぜか急に大人になったような、もの悲しい気分がした。
グローブをなかなか買ってもらえないのはまだいい。小学生の和司を悩ませたのは、給食費の支払いだ。翌月分の給食費の袋は月末に配られたから、翌月の月初めにはほとんどの子が納めてしまう。ところが、母が渡してくれるのは、決まって月半ばであった。家の大変さは分かっているが、級友の手前恥ずかしくて嫌だった。
後年尺八の横山先生に弟子入りして、困ったことがひとつあった。月謝袋が、あの給食費の袋と同じだったことだ。先生に断って、別の月謝袋を購入したが、給食費の袋の思いは今もほろ苦い。
こうした生活ではあったが、高校生になった和司が尺八を習いたいと言った時、すんなり月謝を出してくれた。
「てっきり『だめだよ』 って言われると思ってたんですが、ね。父は、『自分が小さい時に何もさせてもらえなかったから、あいつのやりたいことはやらせてやりたいんだよ』と話していたそうですよ。つくづく親って有り難いですよね」

さて、法政大の付属高校に進んだ和司は、何か楽器を演奏したいと思った。
「トランペットがいいぞ」
いつか見た洋画の一場面が印象に残った。夕日に黒いシルエット。哀調を帯びた″ペット″の調べ……。ブラスバンド部の募集を知っていたが、行動は遅い。やっと重い腰を上げた時、定員一杯で締切られていた。楽器を諦めた和司はワンダーフォーゲル部に入った。ワンデーフォーゲルとはドイツ語で渡り鳥のこと。転じて、渡り鳥のように野山を歩いて心身を鍛えるスポーツを言う。
都合っ子のせいか、自然の中に身を置き自然の呼吸を感じる時、得も言われぬ安心感を覚えた。幼い頃からそうだった。ワンデーフォーゲル部は、山歩きの楽しさと、自然に抱かれている安堵感を存分に教えてくれた。そうした折、手にした本がある。新潟県側からの谷川岳登山ルート・吾策新道を切り開いた高波吾策の著書「魔の山に生きる」である。中の一節にこんな文章があった。
「山の上で尺八を吹くと気持ちがよい。その上、明日の天気までわかる」
山で尺八を吹く、のフレーズにひかれた。
(尺八をしてみようか――)
退職後に尺八を教えている人が近所にいた。その先生について教わることにした。高校に入って初めての夏休みを迎える頃だ。
「尺八ってどうしてか、退職後の人がやるものみたいなイメージを持たれてしまうでしょ。だから友人にはあまり言いませんでしたよ」
登山にこっそり持参したことはある。吹いてみたが、明日の天気は捉えられなかったと言う。

出発はやり直しから

基本音列の出し方、音の変化、拍子を捉えるといった基礎的なことは、1年もあればできる。そして次の段階へと移った。高校生の弟子とあって先生は可愛がってくれるし、自分も確実な技術の向上を実感していた。ところが、同レベルの仲間が先生を変わって急に上達した。
和司には好きな演奏家がいた。横山勝也先生である。先生にかかると、尺八はまるで生き物だ。優しく柔らかな調べを奏でるかと思えば、本曲では一転して人を寄せつけない厳しさを見せる。
(あの先生の許で‥‥‥)
本格的に学びたいと思った。横山先生の教授所を尋ねたのは、大学を卒業した1945年の秋だ。
1948年の芸術祭大賞を受賞した先生は、現在東京音楽大で教鞭をとる。押しも押されもせぬ邦楽界の第一人者だが、すでに当時から、尺八を学ぶ若者の間では絶大な人気を得ていた。教授所には和司より年若い人も多く、熱気に溢れていた。だが和司にも何分かの自負がある。高校・大学と7年もかけて学んできた尺八だ。先生の前で心を鎮めて吹いた。
「どうも音程の取り方が少し違うようだね。基本からやり直してみなさい」
ショックだった。今まではこれで通用した。長年かけて作ってきた、これは自分の音だ。だが、
「はい、やります。教えてください」
半ば無意識のうちに答えていた。先生のプロとしての姿勢と力量に、圧倒される。サラリーマン生活を終えて後、趣味の尺八を教えて暮らそうという人とは違う。いわば背水の陣を敷いて生きる人の生き方に、魅了されたのだ。

(自分の尺八は通用するレベルではなかった)
音程からやり直しだ。以前の悪いクセは、ちょっと気を弛めるとすぐに出てくる。一度できあがったものを壊すことは大変な労力がいるのだ。
(どうしてこうできが悪いのだろう)
情けなさに、ついため息がでるが、止めるに止められない。5孔しかない竹筒である。だがその表現する世界の豊かな広がりは、すでに和司の体の一部となってしまっていた。
基本に忠実に、基本に忠実に、と練習を重ねた。地道な努力だが、そうするうちに基音が安定し、半開・四分の三開・四分の一開・かざし指などの指の操作とあごの操作により、派生音も安定してきた。入門の段階で基礎をみっちり学べというのはこのことか、と納得した。高い梯子を掛けるにはしっかりした土台がいる。たとえ先生が替わろうと、どこでも通用する基礎が大事だ。
(自分が人に教える立場になったら、何はさておいても基礎をしっかり教えなくちゃあ――)
苦しんだ分だけ、大切さが身に染みている。

プロへの道

1972年、NHK邦楽オーディションを受け合格した。岡山市在住の琴の大家・大月宗明先生と出合ったのはこの時。以来の付き合いで、山陽路の岡山は馴染みの土地となった。後に最上稲荷鑽仰茶会の献奏を橋渡ししたのも、大月先生である。
横山先生から学ぶものは多かった。
「一曲一曲が真剣な気迫の勝負だ」
楽器と演奏家は、挑み、戦い、やがて調和して、渾然一体と化した音を醸しだす。音の中にはその人の人間性までもが表現されるのだ、という。尺八は挑む楽器‥‥、青年和司の心は勇躍する。
人柄にも心酔した。細やかで情感豊かなうえ、誰に対しても態度を変えない。ご自分の価値基準をしっかり持ち、地位や身分で判断しない。この先生に師事してよかったなぁ、という思いは、技術を深めようとする自己研鍔に繋がった。なにくそ!こんちきしょう!そう思いつつ勉強した。
その頃、流派に関係なく尺八を教えてくれるのは、NHK邦楽技能者育成会だけだった。週一度一年間通うのだが、当時勤めていた会社が休みを認めない。会社と尺八――、天秤にかけるまでもない。会社を辞めアルバイトをしながら学んだ。後で考えればこれがプロへの第一歩であった。
技能者育成会を卒業して間もなく、先生を通しハワイでの仕事をいただいた。琴との合奏である。初の海外演奏に高ぶる気持ちに言い聞かせた。
「技術は未熟かもしれない。だが、気力、体力は充実している。まけるな!」
邦楽の代表者としての気概であった。

日本古来のものには、それなりの伝統と歴史がある。奥深い文化がある。洋楽に押され気味ではあるが、若い世代にこそ邦楽を広めたい。それは、邦楽に携わる人の共通の思いだ。
横山先生の打ち出したアイデアは、その点斬新だ。個人レッスンでなく学校としての尺八指導を共同生活を通してやってみたい。そうすれば技術はもちろんのこと、人の情や微妙な感覚まで伝えてゆける。日本人ばかりではない。外国の人にも尺八の素晴らしさはきっと理解されるはずだ――。
「国際尺八交流会」の構想である。場所は、岡山県の南西部にある美星町。廃校を借り「国際尺八研修館」と名付けた。そこで春と夏に、全国規模の講習会を開催している。和司さんはそこの教授となった。岡山との繋がりはますます深まった。
星の里・美星町で、本拠地・横浜で、「悠々千年無窮響」(横山蘭畝)の神髄を求め、邁進する。


眞玉和司 プロフィール

1947年横浜市に生まれる
1964年尺八を始める
1970年法政大学史学科卒業
 横山勝也氏に尺八を師事
1972年NHK邦楽オーディション合格
1973年NHK邦楽技能者育成会第18期卒業

自主コンサート、海外公演、CD録音参加等多数

現在 国際尺八研修舘教授、 らんぽ社竹心会(横山勝也主宰)常任理事、 横浜竹心会主宰